この文章を書いたのは?
前提・状況
雨が降ると、駅前のパン屋は少しだけ匂いが強くなる。
濡れたアスファルトの匂いと、バターの匂いが混ざるせいだろうか。たぶん違う。でも私は昔からそう思っていた。
その日も、仕事帰りにパン屋へ寄った。
別にパンが食べたかったわけではない。家には冷凍うどんが二玉あるし、卵もまだ残っている。寄る理由なんてなかったのに、傘を閉じたとき、店の黄色い明かりが妙にあたたかそうに見えた。
「いらっしゃいませ」
店員の女の子が言った。
高校生くらいだろうか。眠そうな顔をしていた。
私はトレーを持って、店内を一周した。塩パン、あんぱん、名前の長いフランスパン。結局、何も決められないまま二周した。
三周目に入るのはさすがに恥ずかしい。
仕方なく、端に残っていたクリームパンを一つ取った。
レジに持っていくと、女の子が「あ」と声を出した。
「これ、ちょっと潰れてますけど、大丈夫ですか」
見ると、パンの横腹が少しへこんでいた。
本当に少しだけだった。
「大丈夫です」
そう答えると、彼女はなぜか困った顔をした。
「新しいの、奥から持ってきましょうか」
「いや、これでいいです」
「でも」
「食べたら同じなので」
自分で言ってから、ずいぶん雑なことを言ったなと思った。
女の子は一瞬黙って、それから笑った。
「たしかに」
会計は二百十円だった。
店を出るころには、雨はほとんど止んでいた。
私は傘を差さずに歩いた。
家まで十五分。
途中の小さな公園で、ベンチに座っている老人を見かけた。傘も差さず、帽子もかぶらず、ただ濡れた砂場を眺めている。
変な人だなと思った。
少し歩いてから、自分も似たようなものかと思った。
別に欲しくもないクリームパンを買って、雨上がりの夜道を歩いている。
理由なんてない。
最近、そういうことが増えた。
電車を一本見送ったり、遠回りして帰ったり。コンビニで知らない味の飴を買ったり。
前は何をするにも理由があった。
早く帰るのは寝るため。
お金を貯めるのは旅行に行くため。
仕事を頑張るのは評価されるため。
人に優しくするのは、嫌われないため。
いつの間にか、それが少し疲れた。
家に着く直前、また雨が降り始めた。
今度は細かい雨だった。
私は軒下に入ろうか迷ったけれど、そのまま歩いた。
紙袋の中のクリームパンが濡れないよう、胸元に抱える。
自分は濡れているのに、パンだけ守っている。
なんだそれ、と少し笑った。
部屋に帰り、電気をつける。
テレビもつけず、濡れた靴下だけ脱いで、床に座った。
クリームパンを袋から出す。
さっきより潰れていた。
たぶん私が強く抱えすぎたせいだ。
一口食べる。
普通のクリームパンだった。
特別おいしいわけでもない。
でも、なぜだか最後までゆっくり食べた。
窓の外では雨が降っている。
明日の朝には、たぶん止んでいる。
それでいい気がした。
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